池袋ジェイズバー蓮村元さんの逝去に寄せて
はじめに
令和6年2月3日、モルト侍こと池袋ジェイズバーのオーナーの蓮村元さんが、逝去された。
急病に倒れ、入院され、数日経ったときのことだった。
ちょっと長くなる…、いや、かなり長くとは思うが、蓮村さんと私との出会いとその後について、私が思い出せる限り、とりとめもなく綴り、残したいと思う。
また、蓮村さんだけでなく、ジェイズーで起こった出来事や出会った人物についても触れたいと思う。
単なる思い出話かもしれないし、私、モルトヤマ 店主 下野の自己満足かもしれないけれど、蓮村さんの偉大さと、蓮村さんが私にどれだけ大きな影響を与えたかについて理解していただけることと思うし、蓮村さんのことも私もことも知らない人でも、この投稿をお読み頂ければ、少しは池袋ジェイズバーに飲みに行きたくなるのではないかと思うし、仮にそうでなくても、ぜひジェイズバーに飲みに行って頂きたい。
それと同時に、蓮村さんとの思い出を書くことで、自分の心と頭を整理したい気持ちもある。
私という人間が形成されてくるにあたり、蓮村さんが与えた影響は図りしれず、ウイスキーの師匠の一人であり、そして、単なるウイスキーの師匠という言葉では言い表せないような、大きな存在であった。
整理できるものなのかどうかは分からないけれど、書くことによってまた一つ、蓮村さんから何か大切なものを教えてもらえるような、そんな気がしている。
私を突き動かしたモルト侍のブログ
蓮村さんと出会ったのは、確か14~15年ほど前のことだったと思う。
その時の私は、まだ、ただの一個人の飲み手で、酒屋を始めるだなんて夢にも考えていなかった。
それどころか、飲みたいウイスキーが富山で飲めなくて、もやもやする毎日を過ごしていた。
私は、25歳になるかならないで、その頃は、まだ、スコットランドへ行ったこともなかったし、ウイスキー文化研究所のウイスキーコニサーの資格の取得もしていなかった。
ウイスキーを飲み始めて5年の若造で、仕事もできないし、彼女もできない、うだつの上がらない本当にダメなやつだった。
そんな私だったが、現在の会社でカルチャー教室を運営しながら、富山では飲みたいウイスキーがなかなか飲めない中、フラストレーションが溜まっていた私は、たまたまウイスキーを検索する過程で、蓮村さんが当時ライブドアブログで投稿されていた、モルト侍のブログにたどり着いた。
今でこそウイスキーの情報というものは、有用な情報に紛れて、どうしようないでたらめな話も含めてうんざりするくらいネットに溢れているが、当時はまだTwitterでウイスキーの情報がガンガン流れてくるなどということはなく、時流に乗っていたブログを介して、限られたプロや飲み手の方が発信されていた。
その中でも、蓮村さんはブログでシングルモルトウイスキーの情報を発信する先駆者だった。
日本のウイスキーブログ草創期というべきときから発信されていたプロの一人であり、livedoorブログで『モルト侍のブログ』とかいうタイトルで発信されていたかと思う。
今、そのブログが残っていないことはとても残念であるし、叶うなら見返してみたい。
蓮村さんのブログは、単にウイスキーの入荷情報や商品スペックを発信するのではなく、蓮村さん独自の解釈でそのウイスキーの立ち位置や存在意義のようなものを表現し、最後はテイスティングノートにまとめてあって、当時としてはかなり画期的であった。
ときには、ポエムのような文体で、当時の私にはなかなか理解が追いつかない高度なレベルでウイスキーを表現されていることもあったが、それがかっこよく、憧れでもあった。
気づくと、あっという間に私はモルト侍のファンになり、毎日、更新されていないかブログをチェックし、その投稿を心待ちにしていた。
蓮村さんが気に入ったボトルは、「コレうま」?などと認定されて、私が買える範囲で買ったり、富山で飲めるものがあれば富山で飲んでいた。
ただ、富山でウイスキーを追いかけてできることにも限界があり、私はジェイズバーに行きたくて、ウズウズしていた。
ある時、当時、私の会社(カルチャー教室)に在職していた女性スタッフが、ご夫婦でウイスキーに興味があり、東京に飲みに行くということだったので、まだ、私も訪れたことのなかったジェイズバーを勧めた。
後日、彼女は、旦那さんとジェイズバーに行き、蓮村さんにいくつかのウイスキーを勧めていただき、そのうちの一つが、魚拓のような魚の描かれているザ・ウイスキーエージェンシーのコールバーン1983 26年で、それが痛く気に入ったと教えてくれた。
それを聞いた私は羨ましくて仕方がなく、コールバーンを飲みたいだけでなく、ジェイズバーに言ってみたくて仕方がなくなってしまい、我慢の限界だった。
そんなとき、モルト侍のブログで、ジェイズバーにてテイスティングイベントが開催されることを知り、思い切って、富山で働くことになってから初めて東京でウイスキーを飲むことにした。
ウイスキーは飲むことでしか理解できない。
ウイスキーのことをまだまだこれっぽっちも理解できていなかった当時の私でも、そのことだけは痛すぎるくらい理解していた。
モルト侍のブログにも、確かそんなことが書かれていたかと記憶している。
蓮村さんとの出会い
そんな経緯で、私はイベントを開催している池袋西口のジェイズバーへ、富山から特急サンダーバードと上越新幹線を乗り継ぎ、向かった。
その頃は、北陸新幹線すら開通していなかった。
当時ジェイズバーは、池袋駅の西口ではあるが、現在の女子大生キャバクラの目の前ではなく、そこから少し離れた住宅街の近いビルの半地下のようなテナントで営業していた。
イベントに参加するため予めメールで参加の申込みをしていたので、テキストでのやり取りはあったが、もちろんモルト侍こと店主の蓮村さんに会うのは初めてだった。
仕事以外で珍しく緊張していたが、ワクワクが遥かに上回っていた。
女の子とデートをする前のドキドキとワクワクに、ある意味近かったのかもしれない。
ドアを明けてお店に入ると、蓮村さんに最初になんと話しかけたかなんて覚えていないが、手土産として持参した当時のダグラスレインのOMCのマッカラン30年のラムカスクを差し上げて、ご挨拶をしたことは確かだ。
当時の私は、少ないお小遣いの中から、有名蒸留所のものや長期熟成のものなどを闇雲に買い、買ってはバーに持ち込んで、お店に差し上げたり、飲食店主催のテイスティング会のボトルとして使用したりしていた。
このマッカランは、そんな当時としては高額なボトルで、蓮村さんは驚くと同時に喜んでくださった。
「せっかくなので一緒に飲みましょう」
と、蓮村さんは、テイスティングイベントの後に、差し上げたマッカランをその場で開け、居合わせたお客様にもそのボトルを振る舞ってくださった。
私は、当時から力強いモルトが好きであったため、その高価なマッカランのあまりの柔らかく大人しいところと、シェリー樽のそれとはあまりに違いすぎるラム樽のほんのり甘く柔らかなニュアンスにがっかりしていた。
でも、そのマッカランを口に含んだ蓮村さんは、一瞬黙って、静かに
「…うん、これは綿菓子だね。」
とボソッと一言呟いた。
言われてみると、それは確かに綿菓子である。
蓮村さんの一言を聞いて、私にはそれが綿菓子にしか感じられなくなった。
少々、というよりむしろ割高にもほどがあると言いたい液体の綿菓子ではあったが、それは紛れもなく綿菓子であった。
蓮村さんのテイスティングノートは、ブログで散々読んできたが、初めて飲むウイスキーを目の前で一言で端的に言い表される姿に、ただただ驚かされると同時に、テイスティングノートというか、ウイスキーを識る人のひと言の重みというか凄みというものを、その時、初めて体感した。
初めて飲んだこのマッカランのボトルの軽やかさと柔らかな甘さ、その質感と甘さを『綿菓子』という一言で言語化しまうその能力に私はただただ驚嘆した。
「この人は凄い。仙人か何かなのだろうか。」
当時の私には、蓮村さんは達人というより、もはや仙人というレベルでウイスキーを悟った人のようにすら感じられた。
その翌日、私は、蓮村さんに食事に誘っていただいた。
OMCのマッカラン30年のお礼だと思うが、食事の前に蓮村さんは目白の田中屋さんに私を連れて行った。
ネット通販で、東京の有名店からウイスキーを買うことは頻繁にあったが、東京の本格的な酒屋に訪れるのも初めてだった。
見たこともないウイスキーが図書館のように陳列されており、その量と質、そして丁寧な商品案内のポップに圧倒された。
そして、蓮村さんはレジの方に向かった。
レジには、店長の栗林さんがいらっしゃって、蓮村さんが声をかけて挨拶をしたら、栗林さんはニヤニヤしながら古いボトラーズのアードベッグかカリラか何かのアイラモルトを試飲させてくださって、味は全く思い出せないが、柔らかいテクスチャーだが、当時あまり飲んだことのない味で、とにかくとても美味かったということだけははっきり覚えている。
そして、目白の田中屋さん後にして、蓮村さんはタクシーを拾ってくれて、池袋駅西口の寿々屋(すずや)というメンチカツととんかつのお店に連れていってくれた。
寿々屋は、残念ながら今は閉業されているが、私が40年間生きた中で、2番目に旨いとんかつ屋さんで、メンチカツに関しては間違いなく私の1番の銘店であった。
メンチカツととんかつのレベルに圧倒された私は、それ以来、ジェイズバーに行く際の夕食の定番は寿々屋になった。
実は、寿々屋に関しては、とても面白い蓮村さんからのお話があったのだが、ここでは書けないような性質の話ではないので控えたい。
話をもとに戻すが、蓮村さんと寿々屋でメンチカツととんかつを平らげ、私は前日に続いてジェイズバーに訪れた。
記憶が曖昧な部分もあるが、確かその日に、少なくてもイチローズ・チョイスの川崎グレーン1976、1981、1982の三種は飲ませて頂いた記憶がある。
『グレーンウイスキーなのになぜこんなに味があるのか……樽だけでは説明ができない……。』
そんなことを、つぶやきがながら飲んでいたことと思う。
シェリー樽の濃厚なウッディさから、酒質がバーボンのようであり、どこかしらブランデーのようにも思わせる華やかで圧倒的な芳香を放つ、こんな美味いグレーンを飲んだのは初めてで、感動の連続だった。
特に瓶底になっていた1976は、その中でも頭一つ抜けていて、初めてグレーンウイスキーを飲んで鳥肌が立った。
私が、蓮村さんに感動を伝えると、蓮村さんは、
『開けたてはかなり固くて、ポテンシャルの凄さは分かっても、なかなか要素が拾えないかった。それがボトルの中の残量と共に段々開いてきて、瓶底に近づいて、一気に華やかになってきたんだよ。』
と、とても嬉しそうに語っていた。
この川崎グレーン1976は、未だに、人生で最も素晴らしかったグレーンウイスキーだと言えるほど傑出した存在だった。
そんなこんなで、池袋ジェイズバーでの濃密な2日間を過ごしたのだが、さらにその翌日、蓮村さんは、池袋から東京駅まで付き合ってくれて、東京駅の八重洲の地下街で、今はなきコーヒー屋さんで一緒にコーヒーを飲んだ。
何を話したかは覚えていないが、多分、昨日・一昨日とジェイズバーで飲んだウイスキーのことを話したのだと思う。
そして、一服ついた後、リカーズハセガワに伺った。
リカーズハセガワで何種か試飲し、富山のバーテンダーの方にお土産でなにかボトルを買おうと思ったところ、たまたま前日に飲んだ川崎グレーン1982を見つけた。
昨日飲んだ、美味しいグレーンだ。
さすがに1976は売っていなかったが、1982を見つけられた幸運に感謝し、レジにて会計を済ませて、蓮村さんにお礼を言って、新幹線に乗るために改札に向かい、東京を後にした。
今思い返すと、初めてお店に飲みに来たどこの誰かもよく分からない若者に対して、ここまで親切に接してくださった蓮村さんはどれだけ親切な人だったのだろうか。
これが蓮村さんと私との出会いである。
出会いの話だけでもあまりに長くなってしまった。
いつになったら書き終えられるかわからないが、また少しずつ書いていきたいと思う。
続く。
著者 下野 孔明 (しもの ただあき)
シングルモルト通販モルトヤマ 店主
T&T TOYAMA株式会社 代表取締役社長COO
1983年生まれ、2013年より、シングルモルト通販モルトヤマを開業。
訪れたウイスキー蒸溜所は、日本、スコットランド、アイルランド、アメリカ、カナダ、韓国、台湾を合わせて140箇所を超える。
東京ウイスキー&スピリッツコンペティション
2019、2020、2021、2022、2023公式審査員
ウイスキー文化研究所認定ウイスキープロフェッショナル
ウイスキー文化研究所認定ウイスキーレクチャラー
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